質問集|Q&A

 わたしたちはすべての人に、地方召会のすべてのクリスチャンが、共通の信仰に対して絶対的であって、最も正統的なクリスチャンであることを、知っていただけたら幸いです。

 

 わたしたちは主イエス・キリストを、わたしたちの主また救い主として受け入れました。主イエスはわたしたちの命として、わたしたちの中に生きておられ、わたしたちのすべてとなっています。わたしたちは主を愛し、主に仕えるだけでなく、他の多くの人が主イエスを実際に経験的に知ることを助ける願いを持っています。わたしたちは主イエスを信じ愛するクリスチャンたちと共に集会しており、何の宗派の背景もありません。なぜならわたしたちは、キリストのからだの一の証しをすることを目標としているからです。

 

 わたしたちはすべての主イエスを信じる人たちを歓迎し、キリストにあるわたしたちの兄弟姉妹としての交わりをしたいと思っております。わたしたちの真実な願いは、この地上での主イエスの証しが拡大し、大いに強められて、主の花嫁が備えられ、主の再来を早めることです。主がこの時代に、この地上でのご自身の働きに誉れを与え、立証してくださいますように。

 

よくある質問

Q1: クリスチャンでなくても、教会に行って大丈夫ですか?

 

もちろん、大丈夫です。今いる方々も初めて教会に来られた時は、ほとんどの人がクリスチャンではありませんでした。一歩目は勇気がいるかと思いますが、わたしたちも温かく歓迎したいと思いますので、どうぞお気軽にお越しください。一度来たら、来続けなければならないこともありませんので、ご安心ください。

 

Q2: 初めて教会に行く場合、どうしたらよいですか?  教えてください。

 

教会の人に初めて来たことを伝えてくだされば、ご案内します。そのまま集会所に入ってくださっても構いませんし、お声をおかけくだされば、教会や集会についてご説明いたします。 

 

Q3: 何を持って行けばよいですか? どのような服装で行けばよいですか?

 

貸し出し用の聖書や詩歌がありますので、手ぶらで来ていただいて構いません。服装の決まりはありませんので、普段着で大丈夫です。

 

Q4: 信仰や入会を強制されたりしませんか?

 

強制はしませんので、ご安心ください。なぜなら、信仰は強制されるものではなく、自ら選ぶ事柄であるからです。 

 

Q5: 献金を強制されたりしませんか?

 

献金を強制されることもありません。わたしたちは献金袋を回すこともありません。献金は神に対して自発的に隠れて行なうものですので、各自の信仰に任せられています(マタイ6:1-4)。 

 

Q6: 聖書の言っている救いとは何ですか?

一つは永遠の滅びからの救いです(ヨハネ3:16)。永遠の滅びというのは、世間では地獄と言われているもの、聖書では火の池と呼ばれているものに永遠にわたって入れられることです(啓示録20:15)。これは第二の死とも言われています。だれでも主イエスを信じることにより、この事から永遠に救われます。 

 

 

もう一つの救いは日ごとの救いです。神の命を受け、この命を成長させることにより、日常生活の中でさまざまな消極的なものから救われ、積極的なものを与えてくれます。この救いは、罪、短気、不安、悩み、憎しみ、不満、口論などから解放し、喜び、愛、満足、知恵、思いやりなどを与えてくれます。

 

「○○に在る教会」って何?

 沿革=「○○に在る教会」とは、分派(教派)、組織・伝統を嫌うキリスト者たちが、純粋に聖書の模範に従い、日本では1954(昭和29)年頃から、それぞれ地元に在って一つである立場に立って集まるようになった教会です。本部を持ちませんし、何一つ永久的な職位、組織化された指導権もありませんし、どんな階級制度も、準頭者も、中間者も認めていません。聖徒たちはみなお互いに兄弟姉妹としか呼び合っていません。現在70数都市にこのような教会があります。なお、「地元にあって合一である立場に立つ教会」とは、説明のことばです。名称ではありません。(出典:2018年キリスト教年鑑、p.121)

 

 聖書はわたしたちの唯一無二の標準ですので、わたしたちは聖書の中で罪定めされている分裂の立場や独自の名称(それが聖書の真理であれ、偉大な人物であれ)を取ることはしたくありません(Ⅰコリント1:10-12)。聖書の中の教会の立場は、「アンテオケに在る教会」(使徒13:1)や「エペソに在る教会」(啓示録2:1)などと書かれているように、地方都市がその立場であることがわかります。このゆえに、市川市に住んでいるわたしたちは聖書で示されている模範にしたがい、「市川に在る教会」として教会生活を行なっています。

 

 また、使徒の時代の初期の認識と実行によれば、教会は建築物を指すのではなく、その地方都市に住むすべてのクリスチャンを指していました。わたしたちは主イエス以外の名前を何も掲げない、市川にあるただの「教会」であることを神の御前で望んでいます。そして、ヒラデルヒアに在る教会のように、少しばかりの力をもって、主の言葉と主の御名を否まずに、主に喜ばれる者となることを願い(啓示録3:8)、共に神の住まいとして建造されていくことを目標としています(マタイ16:18、エペソ2:21-22)。

教会と召会って何が違うの? 

 日本語で「教会」というと、とんがり屋根に十字架のついている建物を創造する方が多いのではないでしょうか? あるいは、漢字の意味から見ても、「会衆に教える」というイメージになりますよね。でも、この言葉のギリシャ語原文は「エクレシア(ekklesia)」という言葉で、「ek(~から)」と、「kaleo(召された会衆)」の派生語から成っています。ですから、原文どおりの意味は、「召し出された会衆」、つまりこの世から救われたクリスチャンの集まりのことを指しているのです。だから、わたしたちは真理の意味が正確に伝わるように「召会」という言葉を採用しています。

 教会という言葉が最初に使われたのは西洋の宣教師たちが日本に来た時でした。彼らは、信者の集まりを教会、すなわち、宗教の集会と呼びました。それにあたる英語はchurchです。ある辞書はそれを礼拝堂(クリスチャンの集まる場所)であると言っています。また、ある辞書はクリスチャンが一つの団体であり、その名称がchurchであると言っています。

 

 A.D.1828年、宗派の立場から出て来た一群れのクリスチャンたちから成るブラザレンが英国で起こされました。その中で先頭に立ち、主に大いに用いられたジョン・ネルソン・ダービーはこの啓示をはっきり見て、彼の訳した聖書では「church(教会)」ではなく「assembly(集まり/会衆)」という言葉を使いました。それはクリスチャンの集まり、すなわち、召会を指します。20世紀に至って、中国圏の海外では召会という言葉を使うクリスチャンが増えてきていますが、日本でこの真理を見て、この言葉を用いている群れはわたしたち以外にほとんどいないのが現状です。

主日って何? -What is the Lord's day?-

 「主日(Lord’s day)」という言葉は、聖書の中で一回だけ使われています。使徒ヨハネは啓示録第110節で、「わたしは主日に霊の中にいた」と言っています。主日は初めの日であり、週の初めの日は主の復活の象徴です。なぜなら、主イエスは週の初めの日に死人の中から復活されたからです(ヨハネ20:1)。わたしたちは聖書の啓示にしたがって、日曜日ではなく主日という呼び方を好んで使っています。

主の回復って何? -What is the Lord's Recovery?-

わたしたちが地方召会の中にいるのは、神の回復のためです。わたしたちの証しを正しく理解するために、わたしたちは「回復」の基本的な定義を以下のとおりにします:

 

1.回復という語は、失われていたあるものをもう一度獲得する、あるいは損傷を受けたものを正常な状態へ回復することを意味します。神がある事柄を回復しておられるということは、ある事柄が教会歴史の過程で、失われ、誤用され、腐敗させられてしまったということ、そして、それを神が当初の状態へと回復しておられるということを意味します。

 

2.教会は数世紀にもわたる歴史を通して堕落してしまったので、神の当初の意図にしたがって回復される必要があります。教会に関してわたしたちが見たビジョンは、現在の状態や伝統的な慣行には支配されていません。わたしたちが見たビジョンは神の当初の意図により、また神の御言葉の中に啓示されている不変の標準によって支配されています。わたしたちは、教会に関する新約聖書の啓示を単なる歴史上の事例とは考えず、現在の教会の実行の模範と考えています。

 

3.神の回復は二十世紀に始まったのではありません。開始の正確な日付を決定することは困難ですが、カトリックの腐敗からのマルチン・ルターによる改革の時(宗教改革)とするのが妥当です。回復は改革の時から数回の段階を経て発展してきました。ジンゼンドルフ(Zinzendorf)の指導の下で、ボヘミアで教会生活が部分的に回復されました。プリマス・ブラザレン(Plymouth Brethren)が、ジョンネルソン・ダービー等の導きの下で数多くの貴重な聖書真理を解明し、内なる命の真の経験へとさらに進みました。今やこの回復の動きは、キリストのからだの表現である真の地方召会の建造という段階に達しています。

 

4.今日、主は彼の回復の中でおもに二つの事を行なっておられます。一つは、キリストのさまざまな豊富の経験を回復すること、すなわちわたしたちの命またすべてとしてのキリストの享受を回復することです。もう一つは、教会生活の実行を回復することです。実際的な教会生活は、キリストのさまざまな豊富を享受することから出て来ます。主の回復の中にいるわたしたちは、キリストが計り知れない豊富を持つ方であり、わたしたちの享受のためにすべてを含む方であることを証しします。そして、神の純粋な言葉の啓示にしたがって教会生活を実行する負担を、主がわたしたちに与えてくださったことを証しします。


参考:主の回復の歴史

クリスチャン生活と召会生活とは、いったいどのような生活なのですか?

個人の面から言うと、クリスチャンにはどのような経歴と生活があるのですか?

 

  1. 再生:クリスチャン生活は再生で始まります。再生とはキリストの贖いを通し、わたしたちの霊の中でその霊から生まれることであり(ヨハネ3:6)、それによって、わたしたちの霊の中へと分与された神の命と性質を持つことです。これは神の命そのものがわたしたちの霊を生かすのです。

  2. 分離:真のクリスチャン生活は、この腐敗した邪悪な世界から当然、分離を要求します。この分離は律法や人の作った規則によってなされるのではなく、わたしたちの内側に住んでおられる聖なる方の命と性質とによってなされます。わたしたちはキリストの贖いの血により、聖霊により、また主イエスの御名の中で、神へと聖別されています。正常なクリスチャン生活を送るためには、わたしたちはそのような分離された立場を維持しなければなりません。わたしたちはこの世のものではありませんが、この世にあって敬虔な生活を送ります。

  3. 献身:クリスチャンの生活は献身の生活です。主への献身とは、わたしたちが絶対に主にささげられていることを意味します。それはわたしたちが彼のために何かをするとか、何かになるとかではありません。御旨のよしとするところに従い、彼がわたしたちの上に、またわたしたちの中で、みわざを行なうことができるように、わたしたちを生きた供え物としてささげ、主の意のままに用いていただくことです。わたしたちは主を愛し、主のものになることを喜ぶからこそ主に献身するのです。わたしたちはまた主がその尊い血でわたしたちを買い取られたので、自分たちはすでに主のものであることを認めます。わたしたち地方召会にある者は自分自身のために生きているのではありません。ただ神のため、神の永遠のご計画の成就のために生きています。

  4. 主を愛する:わたしたちのクリスチャン生活では、主を愛することを強調します。他のすべてのことにまさって、神はわたしたちが彼を愛することを願われます。わたしたちは、主イエス・キリストが全く愛すべき方であることを、主がわたしたちの心を奪ってしまわれたことを、またわたしたちが主を愛するのはわたしたち自身の愛で愛するのではなく、実は彼がまずわたしたちを愛してくださったその愛で愛するのであることを証しします。

  5. 神の言葉:聖書は、わたしたちクリスチャンの生活の中で非常に重要な地位を占めています。地方召会の中のすべての人たちは規則正しい方法で、御言葉を読むように、一年に一度は通読するようにとさえ奨励されています。わたしたちは御言葉を読みます。御言葉を研究します。そして、御言葉を祈り読みによって霊的食物として食べます。聖霊から出たと主張するすべての教え、霊感、また導きは、御言葉の中の神の啓示によって吟味されなければなりません。聖書は非常に多くの事柄に関して神の思いをわたしたちに啓示していますが、わたしたちにとって聖書は第一義的には教理の書ではないのです。むしろ、それはおもに命の書です。わたしたちは単に知識を求めて御言葉に来るのではありません。聖書の祈り読みを通して主イエスに触れるために来るのです。そして彼ご自身こそが生ける御言葉です。

  6. 祈り:クリスチャンの生活はまた祈りの生活です。祈りの中でわたしたちは主との甘く親密で個人的な交わりを享受します。祈りによってわたしたちは、自分たちが主に信頼していること、彼に服従し、彼のご計画の成就のため彼に協力したいというわたしたちの願いを言い表します。地方召会の中のすべての人たちは、毎日個人的な祈りのひとときを持つように奨励されています。

  7. キリストを経験する:わたしたちは聖書の中の神の啓示から、クリスチャンの生活というものは、実はわたしたちの中に生きておられるキリストご自身であることを見てきました。この理由により、わたしたちはキリストを経験することを大いに強調します。新約聖書の書簡によれば、キリストはわたしたちの中に啓示されるのであり、わたしたちの中に生きておられるのであり、わたしたちの中で形づくられつつあるのであり、わたしたちの中にホームを造りつつあり、わたしたちの中で拡大されつつあり、わたしたちにとってすべてのすべてとなりつつあられます。外側の模範にしたがって、キリストを模倣するのではなく、わたしたちはキリストを生かし出し、キリストによって生きることを追い求めます。それは内住のキリストがわたしたちの全存在を占有して、わたしたちの日常生活の中で、わたしたちを通して彼がご自身を表現されることによるのです。

  8. 十字架につけられた生活:真のクリスチャンとして、わたしたちは十字架につけられた生活を送るべきです。わたしたちはキリストの十字架を恥じませんし、十字架の狭い道に従うことにしりごみしません。もしわたしたちがキリストを真に経験し、彼によって生きたいのであれば、わたしたちはわたしたちの生活の中で十字架の主観的な働きを日ごとに経験しなければなりません。わたしたちは神の目で見ることによって、人の堕落した肉の醜さを見てきました。そして、それに対する神の裁きにわたしたちは同意します。さらにまた、わたしたちは自己と天然の人はいずれも神に敵対していることを見てきました。こういうわけで、わたしたちはキリストの死が内側で働かれるのを歓迎します。それは、わたしたちがキリストを経験するため、また彼の復活の命のもろもろの豊富の中で彼によって生きるためです。

  9. 養い:もし正常なクリスチャンの生活をしたいのでしたら、わたしたちは日々、霊的食物と霊的飲み物で養われなければなりません。このゆえにわたしたちは、わたしたちの霊的食物と飲み物であるキリストにあずかることを強調します。霊の中で御言葉を通して、わたしたちは彼をわたしたちの命の供給として享受します。彼ご自身「わたしを食べる者も、わたしのゆえに生きる」(ヨハネ6:57)と言われました。主は生けるパン、命のパン、この世に命を与える天から下ってきた神のパンです(ヨハネ6:33、35、51)。そしてわたしたちは彼によって毎日養われます。

  10. 命の成長:地方召会では、クリスチャン生活においてわたしたちは命において正常に成長しなければならないことを強調します。わたしたちは霊的な幼子のままで満足しているべきではありません。神聖な命は、人の命のように円熟へと向かって正常な成長をしなければなりません。ですから、主を追い求める者たちであるわたしたちは、命の成長を追い求めます。わたしたちは完全に成長した人となって、主を表現し、また主の権威を帯びて主を代行し、彼の敵を打ち破るために霊的戦いに従事する者となることを願い求めます。

  11. 人の生活:クリスチャンとしてわたしたちはまた、極端に陥ることなく、あらゆる方向にバランスのとれた正常な人の生活をします。わたしたちは、わたしたちの全存在、すなわち霊、魂、体が神の栄光のために維持されることを願い求めます。わたしたちはあらゆる関係の中で、イエスの人性を表現し、また人の生活のすべての歩みの中で、彼にふさわしい証しを担うことを追い求めます。そして人の生活のあらゆる歩み、家庭において、学校において、隣人たちに対して、わたしたちの職場において、主にふさわしい証しをします。わたしたちにとってクリスチャン生活は、わたしたちの日常生活と切り離すことはできません。命において成長すればするほど、わたしたちはますます真の人となり、高く上げられ、変ぼうされたイエスの人性を実際的にますます多く享受するでしょう。

  12. その霊:クリスチャンの生活はその霊にしたがって歩む生活です。その霊の中で歩むとは、わたしたちの生活と存在を、その霊にしたがわせることです。ですから、わたしたちはわたしたちの思いをその霊に付け、体の行ないを死に渡す必要があります(ローマ8:6-13)。わたしたちが霊にしたがって歩むとき、神の義の要求はすべてわたしたちの中で自動的に満たされます。ただその霊の中で生活し、その霊にしたがって歩むことによってのみ、聖書の中に啓示されている神聖な事柄がわたしたちにとって実際となるでしょう。ですから正常なクリスチャンであるために、わたしたちはその霊を知り、その霊の中で生き、その霊にしたがって歩まなければなりません。

  13. 造り変え:多くのクリスチャンたちは霊の再生と、体の栄光化とを知っています。しかし彼らは魂の造り変えという決定的に重要な事柄を無視しています。しかし聖書は「思いが新しくされることよって、造り変えられなさい」(ローマ12:2)と言っています。ですから、わたしたちは、命のその霊の内側の働きによって造り変えられる必要があることを認めます。わたしたちが造り変えられるとき、わたしたちの存在そのものの中に内的な変化が起こります。わたしたちの魂が神の要素で浸透されるとき、それは聖められ、聖別されます。このようにして魂は、わたしたちの再生された霊の中に住んでおられる主を表現するという、神が創造されたそれの機能を果たすことができます。この魂の造り変えは、主の再来の時、主にお会いする用意をすることと密接な関係があります。彼の聖と栄光の臨在の中に住むことを願う人たちは、地位上の聖別だけではなく、性質上の造り変えがなければなりません。この造り変えは消極面では十字架の働きを必要とし、積極面では命を与える霊の働きを必要とします。

  14. 栄光化:最後にクリスチャンの命の経験の最高点で、わたしたちの体は栄光化し、主の栄光の体に同形化されるでしょう(ビリピ3:21)。聖書では、これは体の贖い、子たる身分の完成と呼ばれています。ですから、クリスチャンの生活は再生で始まり、造り変えで経過し、体の栄光化で完全に成就します。

 

 

団体の面から言うと、召会の中にはどのような生活があるのですか?

 

  1. 団体の生活:クリスチャン生活はわたしたちの内側から命なるキリストを生かし出すものであり、本質的に一つの団体の生活です。新約聖書における多くの表現が次のことを確証します。すなわち、わたしたちは神の群れの羊であること、わたしたちは神の建造の中の生ける石であること、わたしたちはぶどうの枝であること、わたしたちはキリストのからだの肢体であることです。クリスチャンのわたしたちは各個人ではありますが、もはや個人主義的に生きるべきではありません。すなわち、自分自身の利益、活動、目標だけに注意を払うべきではありません。その反対に神は、わたしたちが団体の生活をし、キリストのからだを意識し、他の人のことを思い、召会の建造に関心を持つことを願われます。ですから、わたしたちはただ単に正常なクリスチャン生活の回復を経験しているだけでなく、正常な召会生活の回復も経験しています。

  2. キリストの頭首権:召会生活の中で、わたしたちはみなキリストをかしらとして尊ぶ必要があります。わたしたちはからだであり、彼はからだの唯一のかしらです。だれも、何もキリストの頭首権を侵害することのできるものはありません。キリストの頭首権を侮辱するどんな体系も組織も指導権も容認することはできません。わたしたちの間では何一つ永久的な職位、組織化された指導権などありません。さらにまたどんな階級制度もありません。それどころか、からだのすべての肢体は、かしらと直接の交わりを持ち、彼らの生活と行動についてのすべての管理をかしらから直接受けるように勧められています。わたしたちはキリストと彼のからだの肢体たちとの間にどんな準頭者(subheads)、どんな中間者(intermediaries)も認めません。

  3. 交わり:わたしたちはキリストの頭首権を尊重します。それと同じようにキリストのからだの交わりを享受します。わたしたちはキリストの中では、もはや個人主義的な方法で生活すべきではないことを認識します。反対に、わたしたちはからだの肢体の間の交わりを非常に重んじます。わたしたちはキリストのからだの中を循環する命の流れをどれほど享受することでしょう! わたしたちはこの流れ、この交わりが一つの祝福された実際であることを証しします。

  4. 合一(Oneness):召会生活におけるもう一つの重要な関心事は一を守ることです。主は十字架につけられる前、彼と御父とが一であるように、彼を信じる者たちが一であるようにと祈られました。こういうわけで、わたしたちはキリストのからだの唯一の一を、何をおいても維持することを努めなければなりません。それは一つの地方のすべての信者と、一の立場の上に確立されている地方召会によって表現されるものです。わたしたちは一に心を傾けなければなりません。こういうわけで、わたしたちはすべての分裂を拒絶し、それを嫌悪します。主の証しにとって今日のクリスチャンの分裂状態は何という恥辱と不名誉でしょう! 召会生活でわたしたちはキリストのからだの唯一の一のために立ち上がります。この一を守るために、わたしたちは一の立場に立つ信者として集会し、すべての信者を共通の信仰にしたがって受け入れます。そしてキリストの中で成長することを追い求めて、御父の中にあるキリスト、また御父の栄光の中にあるキリストと共にいるようになるためです。そして、そこにおいてわたしたちは成就されて一となるのです。わたしたちはヨハネによる福音書第17章の中の主の祈りが地上で答えられ、わたしたちが成就されて一となるとき、この世は御父が御子を遣わされたことを信じ、また知るであろうことを信じます。

  5. 相互の顧み:召会生活の実行の中で、わたしたちは聖徒たち、キリストにある信者たちを実際的な方法で顧みます。わたしたちは互いに他の人の重荷を負い合い、訪問者へのもてなしを広げ、交わりのために家を開き、キリストの御名の中での愛の奉仕を通して、兄弟姉妹たちの現実的な心要を満たすことを喜びとします。わたしたちは互いに励まし合い、互いに力づけ合い、互いに命なるキリストを供給し合い、互いに建造し合います。わたしたちの召会生活は、わたしたちの集会所での集会だけに限られるものではなく、随時随所で進行するものです。

  6. 良心:召会生活の中で、わたしたちはまた他の人たちの良心を重んじます。これはキリストの中にあるすべての信者は彼らの良心に従い、また彼らが御言葉を通して神から受けた光の中で主に従う自由を持っていることを意味します。わたしたちの日常生活を型にはめたり、管理したりする外側の支配は何一つありません。またわたしたちの良心を無視する何の権威主義もありません。何の威圧も何の強制もありません。むしろすべての人たちは、自分の良心を神の前で徹底的に対処すること、そして神に対しても人に対しても責められるところのない良心を維持するように奨励されています。ですから、わたしたちは自分の良心と他の人の良心とに心を配ります。

  7. 集会:召会生活は集会生活ですから、わたしたちは週に数回の集会をします。わたしたちにとって集会は苦業ではなく、享受(enjoyment)です。召会の集会でわたしたちは供給され、教えられ、力づけられ、励まされ、照らされ、霊感を与えられ、装備され、建造され、主から使命を受けます。正常な召会生活では、個人的なクリスチャン生活と団体的な集会生活との間にバランスがとれています。主との個人的な時間は集会に取って代わることはできませんし、集会は個人的な時間に取って代わることはできません。わたしたちは個人的に彼と会うことを喜び、またそれ以上に団体的に彼と会うことを享受します。わたしたちは召会の集会の中では、御名の中へと集まるときに復活のキリストが真にわたしたちと共におられることを証しします。

  8. すべての肢体の機能:召会生活では、からだのあらゆる肢体が機能する(役目を果たす)ことができます。わたしたちはみな同じ機能を持っているわけではありませんが、それぞれがみな一つの機能を持っているのであり、あらゆる肢体の機能は高く評価されます。聖職者・平信徒制度は、キリストのからだの肢体の機能を破壊させるサタンの策略であるので、わたしたちはこの制度を絶対的に拒否します。地方召会の中では、わたしたちには聖職者も平信徒もありません。むしろわたしたちにはからだのもろもろの肢体があります。そのすべてがそれぞれの度量に応じて機能する権利を持っています。さらにまた、わたしたちには一人の聖職者もなければ、一人の管理者もいません。すべての聖徒たちは集会で分け与えてよいのであり、またすべての人たちは掃除の奉仕にあずかることができるのです。

 

最新情報/What's New

2021年9月

新型コロナウイルスの感染が急速に拡大している最近の状況を考慮し、今後、当面の間、集会所で集まることを控え、Zoom や LINE などを用い、オンラインで集会や交わりを持っていくこととなりました。主日の集会、祈りの集会、小組の集会がこれに含まれます。このような環境の中でも、聖書の言葉を必要とする方々に、命の言葉をお届けできるようにと願い祈っております。集会や聖書に興味のある方は、お問い合わせの方からご連絡ください。

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日:10:00 ~ 12:00 主日集会

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