こんにちは、私は市川市に住んでいます。キリストを享受することについて話をします。
一部の人は、新約は「享受する」という言葉を使っていないと言いますが、聖書は食べ飲みすることについて語っています。食べ飲みに関することは、すべて享受の問題であるに違いありません。
主ご自身が、次のように言いました、
「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、
わたしの中へと信じる者はいつまでも決して渇くことはない」(ヨハネ6:35)。
彼はまた、次のように言いました
「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい。わたしの中へと信じる者は⋯その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」(ヨハネ7:37-38)。
加えて、使徒パウロも、荒野でモーセに従ったイスラエルの民について次のように言いました、
「みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲みました」(Iコリント10:3-4)。
それから、ヨハネによって書かれた啓示録の中で、主イエスは、次のように約束されました、
「勝利を得る者には、神のパラダイスにある命の木から食べさせよう」(啓示録2:7)。
彼はまた、次のようにも言われました、
「勝利を得る者には、隠されたマナを与えよう」(啓示録2:17)
これらの節は、食べ飲みする問題について述べています。それはもちろん享受の問題です。
神は私たちに与えたいと思っておられる方です。私はしばしば神のために良いことを行いたいと考えますそして良くないことを行ってしまった時、落ち込みます。
しかしエペソ人への手紙2章8節から9節にはこう書いてあります、
「なぜなら、あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰を通してであって、これは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物であるからです.それは行ないによるのではありません.だれも誇ることがないためです」。
神は私たちに何かを行ってほしいと思っておられません。神は私たちに与えることを願っておられます。彼は命のパンです。彼は聖書の言葉であり、私たちは彼の言葉を享受します。聖書の言葉を享受することとはキリストご自身を受け取ることです。
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