私は二人の「お父さん」がいます。
一人は血の繋がった、今は離れて暮らしているお父さん。
もう一人は私を育ててくれて、一緒に住んでいたお父さんです。
血の繋がったお父さんとは話したことがなく、顔も今は覚えていません。
でも小さい頃から、彼が私の生物学的な父親だということは知っていました。
客観的には「父親」と認めても、主観的には「お父さん」と呼べない存在です。
今一緒にいるお父さんは、悩みや嬉しいことを何でも話せる存在です。
無数の会話を重ねてきたからこそ、心から「お父さん」と呼べます。
実は、私と神様の関係もこれに似ています。
子供の頃から神を信じてはいましたが、それは有名な科学者が神の存在を証明する動画を見たことがきっかけで、信仰はどちらかといえば客観的なものでした。
集会に連れて行かれても、子供心に「頭で理解する神様」という感じでした。
日本に来て新しい環境にワクワクしていた頃、すっかり神様のことを忘れていました。
携帯やパスポート、多額の現金を無くした時だけ慌てて祈り、
「イエスよ助けて下さい」と唱える程度。無事見つかるとまた忘れる……そんな繰り返しで、神様との対話らしい対話はありませんでした。
転機は日本に来て半年後のこと。
当時は精肉工場の深夜勤務のアルバイトで、冷凍庫作業の厳しさに耐えきれず、真夜中に一人で帰路についた時のことです。
暗い道で泣きながら「主イエスよ!」と叫び、ヤコブがベテルで誓願を立てたように祈りました。
「神様が私と共にいて、この道を守り、食べ物と着る物を与え、無事家に帰らせてくださるなら……」
その夜、神様との初めての「会話」を通じて、不思議な平安に包まれながら家に辿り着けた体験は、今も私の心に刻まれています。
血の繋がった父との関係のように、困った時だけ頼る存在ではなく、
育ての父のように日常で会話できる関係——
神様との関わりも、苦しい時に助けを求めるだけでなく、
「共にいること」を意識することで、環境が変わらなくても平安が得られるのだと気付きました。
感謝でいっぱいです。
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